「水」(佐多稲子)

音を立てて落ちていた水がとまった。

「水」(佐多稲子)
(「日本文学100年の名作第5巻」)
 新潮文庫

幾代はそこにしゃがんで
さっきから泣いていた。
彼女がしゃがんでいるのは、
上野駅ホームの
駅員詰所の横だった。
幾代の前には、
客を乗せて時刻を待っている
列車の鋼鉄の側面があった。
詰所との間の狭い場所は
蔭になっていた。…。

いつもの粗筋に代えて
作品冒頭の一節を抜粋しました。
筋書きは単純であり、
東京の旅館へ奉公に出てきた幾代が、
危篤の母を失ったにもかかわらず、
主人から帰郷の許しが出なかったため、
上野駅のホームで
泣き続けていた、というものです。

プロレタリア作家として知られている
佐多稲子の短篇です。
この「日本文学100年の名作第5巻」
中で、本作品がもっとも
私の心に突き刺さってきたのですが、
なかなかそれを整理できず、
取り上げるのが遅くなりました。

全編に
幾代の悲しみが満ち満ちています。
脚がやや不自由であるために、
幼い頃からずっと
蔑みの目で見られていたこと、
貧しさのために中学卒業後、
すぐに上京して働き続けていたこと、
決して多くはなかったであろう
給金から母親に送金していたこと、
「ハハキトクスグカヘレ」の
電報を見せても
主人は帰郷を許さなかったこと、等々、
当時は当時は少なからずあった
若者の状況が、
事細かに記されているのです。

そして冒頭同様、
終末も幾代の泣いている場面で
結ばれます。
「幾代は再びもとの場所にもどって
 しゃがみ込むと、
 今までと同じように泣きつづけた」

冒頭も終末も
幾代は泣きつづけているのですが、
「再びもとの場所に
もどって」いるのですから、
一度、別の場所へ
出掛けたことになります。
それはほんの一瞬、駅員詰所の先の、
出しっぱなしにされていた水道を、
幾代は無意識のうちに止めに行く場面が
描かれているだけなのです。
しかしそれこそが本作品の肝なのです。
「幾代は悲しみを運んで
 そこまで歩いてきた。
 幾代は、
 水道の側を通り抜けぎわに、
 蛇口の栓を閉めた。
 音を立てて落ちていた
 水がとまった。が、
 幾代はその動作に
 気づいてはいないらしかった」

無意識に行われたその操作は、
貧しい中で
慎ましく健気に生きてきた人間の、
何気ない所作に
過ぎないかもしれません。
しかし彼女はそこで
自分の内部から止めどもなく
流れ落ちる悲しみをも、
自らの手で堰き止めたと
考えるべきでしょう。

彼女の内部で
大きな変化があったことは確かです。
彼女の貧しさは
変わらないかもしれません。
世の中の無情さも
変わらないかもしれません。
でも彼女は
誠実に生き抜いていくであろうことを
強く予感させます。
鮮烈な筆致で彼女の内面の変化を
描出した佐多稲子の逸品、
ぜひご一読ください。

終末の一節には、
もう一文付け加わります。
「その場所に、
 さえぎるものがなくなって
 春の陽があたった」

(2022.2.10)

ClaudiaWollesenによるPixabayからの画像
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